ひとりごとコラム 

1966年 AUTOCOURSE が選んだ、F-1 THE TOP TEN DRIVER 

John Surtees (ジョン・サーティース)

F-1%2C%EF%BD%BC%EF%BE%9E%EF%BD%AE%EF%BE%9D%EF%BD%BB%EF%BD%B0%EF%BE%83%EF%BD%A8%EF%BD%B0%EF%BD%BD%EF%BE%9E.JPG


[編集]
ジョン・サーティース(John Surtees MBE, 1934年2月11日 - )はイギリスのレーサー。2輪(モーターサイクル)のロードレース世界選手権(WGP)と、4輪のF1GPの両方で世界チャンピオンになった唯一のレーサーである。「ビッグ・ジョン」、「怖いもの無しのジョン」の異名を取る


ジョン・サーティース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
ジョン・サーティース F1での経歴
国籍 イギリス
イングランド
活動年数 1960 - 1972
所属チーム ロータス, クーパー,
ローラ, フェラーリ,
ホンダ, BRM,
マクラーレン, サーティース
出走回数 111
タイトル 1 (1964)
優勝回数 6
通算獲得ポイント 180
表彰台(3位以内)回数 24
ポールポジション 8
ファステストラップ 11
F1デビュー戦 1960年モナコGP
初勝利 1963年ドイツGP
最終勝利 1967年イタリアGP
最終戦 1972年アメリカGP


[編集] 2輪での経歴
サーティースは2輪のレースで7つのタイトルを獲得した。350ccクラスで1958年から1960年まで、500ccクラスで1956年と1958年から1960年までチャンピオンになった。2003年にはMotoGP殿堂入りを果たした。


[編集] 4輪での経歴
4輪に転向し、1960年からはロータスでF1にレギュラー参戦。1963年にフェラーリ入りし、ドイツGPで初勝利を挙げる(チームにとって1年半ぶりの勝利でもあった)。1964年には同郷のジム・クラーク、グラハム・ヒルと激しいチャンピオン争いを繰り広げ、最終戦の最終ラップでクラークがマシントラブルに見舞われるという幸運で、劇的なワールドチャンピオンとなった(2位ヒルとのポイント差は僅か1点)。勇敢なサーティースは総帥エンツォ・フェラーリに気に入られたが、チーム内のイタリア国粋勢力に疎まれ孤立。1966年のベルギーGPで勝利した直後ル・マン24時間レースに参加したが、予選前にチーム監督と衝突し、そのままフェラーリを去ることになった。

1967年からはホンダF1のドライバーとなる。マシンの戦闘力が低いため、かつて在籍したローラとの仲介役になり、ホンダとローラの共同開発マシン(通称「ホンドーラ」)を熟成。イタリアGPでホンダ第1期活動の最後となる1勝を挙げた。 その後、1970年に自分のF1チームサーティースを立ち上げオーナードライバーとして参戦したが、戦闘力は低く、自らのキャリアに傷を付ける結果となった。