ひとりごとコラム 

1966年版、今から41年前の"AUTOCOURSE"をやっと見つけました。 

先日、いつも行ってる神田の古本屋さんで1966年版の”AUTOCURSE”を見つけました。60年代の61、62、63、64、65年版の5冊は購入して持っていますが,66年以降のものは持っていないので前から欲しいなあ~と思っていたがなにせ40年も前の年代ものなので高くてなかなか手がでませんでした60年度版はどれも5万円以上はするし、中には9万円もするのもあります。

毎月の小遣いをコツコツ貯めないと買いないので、残り5年分を購入するには2年くらいは掛かります。初めて見る66年度版の”AUTOCOURSE”は厚めのハトロン紙で丁重に包まれていて中を見ることが残念ながら出来ませんでした。前から欲しかったので買うか、買わないか、すご~く迷いましたが買わないでこのまま帰ると後で後悔するだろなと思ってどしようか本当に迷いました。誰かに買われたらまた初めから探さなければならないので、それを考えるとここで思いきって買うことにしました。”AUTOCOURSE”1966年版の価格は¥73,500円(税込)でた。

手にとった41年前の”AUTOCOURSE”は重厚な表紙で40年の時の重さをずっしりと感じました。画像はすべてモノクロで編集されています。’60年代のF1ドライバーにはジム・クラークやグラハム・ヒル、ヨッヘン・リント、ジョン・サーティース、ジャッキー・スチュワート、ブルース・マクラーレン、デニス・フルム、ジャック・ブラバムなどが当時のF1レース界のトップドライバー達でした。

1966年、今から41年前のF1レースはどんなマシンだったのか!ドライバーにはどんな人がいたのか当時のF1レースをご存知の方は多分懐かしいと思います。


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AUTOCOURSEが選んだ、F-1 THE TOP TEN DRIVER

Jim Clark (ジム・クラーク)

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ジム・クラーク(James "Jim (or Jimmy)" Clark Jr. OBE, 1936年3月4日 - 1968年4月7日)はスコットランド出身のレーサー。フライング・スコット(天駆けるスコットランド人)の異名を持つ。F1の歴史において最も優れたドライバーのひとりに数えられ、天性の速さの資質においてアイルトン・セナと並び称されている。


ジム・クラーク

スコットランド、キルメニーの農家に4人の姉を持つ末っ子として生まれる。牧童として働きながら、趣味で参加した草レースでロータスの創始者コーリン・チャップマンに見出され、1960年に同チームからF1にデビューした。


ロータス25に乗るジム・クラーク(1962年ドイツGPにて)1962年には、バスタブ型のモノコック構造を初めて取り入れた「ロータス25」で、9戦中6回のポールポジション、3度の優勝という活躍を見せてBRMのグラハム・ヒルとチャンピオンを争い、翌1963年には10戦中7回のポールポジション、7勝で開幕戦モナコGP以外は全て表彰台という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝いた。同時にロータスも初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

1964年はシーズン中盤のドイツGPから投入した「ロータス33」の信頼性が低かったことでリタイアを繰り返した。それでもクラークはフェラーリのジョン・サーティースとチャンピオンを争い、最終戦メキシコGPでも最終ラップまでトップを走り、2年連続チャンピオンはほぼ決定と思われたが、オイルパイプのトラブルでストップしてしまい、チャンピオンを逃した。


ジム・クラーク(1965年ドイツGPにて)1965年はクラークとロータスがレース界を席巻した年となった。F1では開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまで、インディ500に出場する為に欠場した第2戦モナコGPを除く全てのレースで優勝し、3戦を残してチャンピオンが決定した。さらにクラークは「ロータス38」で出場したインディ500でも優勝を果たした(インディ500には1963年から参戦)。

レギュレーション改定でエンジン排気量が1.5リットルから3リットルに変更された1966年のロータスは、BRMのH型16気筒エンジンという「珍品」を持ち出すなどしたため、クラークは1勝に止まった。しかしロータスを率いるコーリン・チャップマンはフォードの支援の下、翌1967年に向けてひそかにフォード・コスワース・DFVエンジンを開発。このエンジンを搭載した「ロータス49」のデビュー戦1967年オランダGPで優勝するなど、この年クラークは4勝をあげ、チャンピオンの座はブラバムのデニス・ハルム(2勝)に譲ったが、通算勝利を24に伸ばして、歴代1位のファン・マヌエル・ファンジオと並ぶタイ記録となった。

磐石の体制を得たクラークは、翌1968年の開幕戦南アフリカGPに勝利して通算25勝と歴代単独1位になり、この年のチャンピオン最有力候補と見られていた。しかし第2戦スペインGPまでのインターバルの間の4月7日にドイツのホッケンハイムで開催されたF2レースに「ロータス48」で出場したクラークは、突然コースアウトして木に激突し、事故死した。享年32。原因は完全には特定されなかったが、タイヤの空気圧の低下であったとみられている。1968年のドライバーズ・チャンピオンはチームメイトのヒルが獲得した。

クラークは72回のグランプリに出場して25勝したにもかかわらず、2位は1度しかない。このことは、マシンの軽量化をギリギリまで追求したチャップマンのロータスに乗ったクラークには、マシントラブルでも起こさなければ競り勝つことが難しかったことを物語るデータとして、しばしば取り上げられる。ポールポジション通算33回は、アイルトン・セナ(65回)に破られるまでは歴代1位の記録で、現在でもアラン・プロストと並んで歴代3位であり、ポールポジション獲得率45.8%はセナの40.4%を上回る。

そのレーススタイルは予選で段突のポールポジションを獲得し、決勝レースも1周目から後続を引き離して独走優勝というものであった。

ロータスは1968年南アフリカGPの後、ナショナルカラーの緑色に替わってスポンサーカラー(ゴールドリーフ・タバコ)に塗られるようになり、クラークも同年のタスマンシリーズにはゴールドリーフカラーの「ロータス49T」で出場し、事故死したF2レースでのマシンも同様だった。しかしF1グランプリでロータスがスポンサーカラーに塗られたのはクラーク死後の第2戦スペインGPからで、そのためにナショナルカラー時代を象徴する最後のF1ドライバーともなった。

農家の生まれであるクラークの木訥な性格は、華やかなF1の世界にあっても揺らぐ事はなかった。ある年のモナコで、チャップマンがクラークとヒルの二人に小遣いを渡し、カジノで存分に遊んでくるよう促した事があった。しばらくしてチャップマンはまずヒルに会ったが、その時ヒルはとっくにチャップマンから貰った金を使い果たしていた。次いでクラークに会ったチャップマンが調子を聞くと、クラークはまだ金に全く手をつけていなかったという。クラークとヒルという二人のチャンピオンの性格の好対照を物語るエピソードとして語り継がれている。

典型的なナチュラル・ドライバーとして知られ、不調のマシンでも難なく乗りこなしてしまうため、メカニックに「彼がマシンに乗ると、セッティングが進まない」と言わしめるほど、その才能は高かった。

あまり酒を飲まず、バーでもジュースで済ませる事が多かった。そんな木訥な彼の性格は、チャップマンに「いつまでも田舎の兄ちゃん」と言わしめ、彼を大事に扱い、公私に渡って面倒をみたという。そして、「彼は、ナンバーワンであり、しかもパーフェクトだった」と最高の賛辞を送り、彼の死においてはチャップマンは深く悲しみ、慟哭したほどである。


ジム・クラークカップ

ターボエンジンの禁止に先駆けて、1987年より3.5L NAエンジンの使用が認められた際、全面移行となる前の1988年までの間、NAエンジンユーザのためのタイトルが設けられた。ドライバーズタイトルとして、すでに伝説のドライバーとなっていたジム・クラークの名前を冠した。一方コンストラクターズタイトルは、ジムが長年所属していたロータスの創始者である、チャップマンの名前が冠された。