ひとりごとコラム 

1996年 AUTOCOURSE が選んだ、F-1 THE TOP TEN DRIVER 

Jackie Stewart (ジャッキー ・ スチュワート)


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ジャッキー・スチュワートの父親はジャガーのガレージのオーナーで兄はジャガーのレーサーであり、モーターレースの世界に入るのは自然のなりゆきだった。クーパーのF2チームで活躍し、当時F1のトップチームのひとつだったBRMに抜擢された。

BRMではデビュー2戦目に3位表彰台、8戦目のイタリアGPで早くも初優勝を達成した。エースのグラハム・ヒルを脅かす存在となり、同郷の先輩ジム・クラークと共にフライング・スコッチ(空飛ぶスコットランド人)旋風を起こした。

1968年、クーパーF2時代の監督ケン・ティレルが率いるマトラのセミワークスチーム(マトラ・インターナショナル)へ移籍し、オランダGPでフランス車のF1初勝利を記録した(ただし、自製V12エンジンのマトラワークスと異なり、フォード・コスワース・DFVエンジンを使用していた)。ドイツGPでは濃霧のニュルブルクリンクで2位以下を4分引き離す圧勝劇を演じ、卓越した技量を証明した。翌1969年には8戦5勝の快ペースで、3戦を遺して悠々と初のワールドチャンピオンを決めた。

1970年はマトラとフォードの契約が切れたためマーチシャーシで参戦。カナダGPから正式にコンストラクターとなったティレルチームで翌1971年に再び圧勝し、2度目のチャンピオンとなった。恩師ケン・ティレル、愛弟子フランソワ・セベールとのチームワークは素晴らしく、1972年はエマーソン・フィッティパルディに敗れたものの、1973年には3度目のチャンピオンとなった。当時ヨッヘン・リントを始めドライバーの事故死が相次いでおり、後継者のセベールが順調に成長していたことから、タイトルを花道にシーズン後の引退を決意した。しかし、最終戦アメリカGPの予選中セベールが無残に事故死したため、レースを待たずして現役を退いた。

F1通算27勝は1987年にアラン・プロストに破られるまで、14年間F1最多勝として記録された。強烈な速さを備えていると同時に、レース全体の流れを見て無理をせずにポイントを稼ぐ頭脳もあり、後のニキ・ラウダやアラン・プロストと似た知性派のチャンピオンだったと言える。レース史に残る偉大なドライバーであることは間違いない。

日本でも1966年に富士スピードウェイで開催されたインディ200マイルで優勝、また1970年 JAFグランプリにブラバムF2で参加して、生沢徹などの日本のトップドライバーに圧勝した。ヘルメットのタータン・チェックのデザインも印象的であった。